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國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を、まったく退屈することなく夢中になって読み終えた。もっとも食らったのは次の文。
私たちはいま自分たちの役割を探している。(中略)
なぜそんなことをしなければならないのだろう?
――もしかしたら、私たち自身がいま、自分たちにとって退屈になってしまっているのではないか?
どきっとした。仕事にはそれなりに満足している。家族や友人とも良い関係を築けている。なのにどこか満たされない。なにか違う気がする。
そんな想いを抱いたことは誰しもあるだろう。
その「なんか違う感」が「自分が、自分にとって退屈な存在になっているから」だとしたら、なんと哀しいことだろう。
面白い大人になりたい、格好良い人になりたい、そう望んで歳を重ねてきたはず。
じゃあ、いまスマホの画面にうっすら映る「この人」は、あの頃憧れた「あの人」のようになれているだろうか。
生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する、と本書は説く。
ルワンダ人が暇を楽しめる理由
生きているという感覚。わたしは足掛け10年、アフリカのルワンダという国に住んでいるが、この国で暮らしていると、より「生きること」を身近に感じることができる。一日に一食食べることすらままならない人、肉体労働で日々数十円を稼ぎ、その日暮らしの生活を続ける人。そんな人たちがまわりにいるからだ。
彼らのように「生きること」に困難がともなう生活であれば、「生きてる感じがしない」などという甘っちょろい考えは言語道断、贅沢極まりないと感じるだろう。精一杯生きているのであれば、「打ち込むことへの渇望」など抱かないかもしれない。
ルワンダの人々を見て、いつも不思議に思うことがある。軒先に座ってなにもせずぼーっとしている人がいるのだ。しかもひとりふたりではなく、そこかしこに。わたしだったら数分で飽きてしまって耐えられないと思うが、彼らはじっと座っている。いちど「何してるんですか?」と聞いてみたことがあるが、答えは「なにもしてない」だった。
「退屈で死にそう」な日本人がいる一方で、なにもしない時間すら彼らは乗りこなせるのだ(楽しんでいるかどうかはわからないが、少なくとも辛そうには見えない)。
豊かになると、余裕ができる。余裕とは、金銭的余裕と、時間的余裕のこと。多くの日本人には金銭的余裕はあるが、時間的余裕がない。多くのルワンダ人には金銭的余裕はないが、時間的余裕はある。だからぼーっとする時間をも楽しめるのかもしれない。とても贅沢な時間の使い方だと思う。時間どろぼうに時間を奪われがちなわたしたちより、よっぽど「豊か」だとも言えるのではないだろうか(一方で打ち込むことがないがために、非行や犯罪に走ったり無気力になったりするという話も聞くのだが)。
贅沢を取り戻せ。浪費と消費の違い
いま「贅沢」ということばを使ったが、この聞き慣れたことばにさえ本書は新たな気づきを与えてくれた。人が豊かに生きるためには、贅沢がなければならない。食べ終わっても物足りないなあと感じるような毎日よりは、ときどき十分な量を越えて満腹を感じられる日があるほうが豊かな人生だと言えるだろう。
そこで留意すべきなのは、「浪費」と「消費」の違いだ。
「浪費」の場合は、必要を越えて物を受け取る。いずれは満足して限界に達する。
しかし「消費」には限界がない。それは、受け取っているのが物ではなく、そこに付与された観念や意味だからだ。
たとえば、美味しいものを食べることよりも、テレビで紹介されたお店に行くこと自体が目的になっているのだとしたら、それは「消費」だ。満足感を得られないので、止まることがない。
現代人は自分がなにをしたいのか、何が欲しいのか、意識できなくなっている。高度消費社会になり、生産者や広告業者が「あなたがほしいのはこれですよね」と親切にも教えてくれるからだ。
だからわたしたちが欲しいと思っているもの、やりたいと思っていることが、心から望んでいるものだとはかぎらない。そうするとうわべの価値だけを受け取ってしまい、どれだけ消費しても満足できないという結果になってしまう。
モノそのものを楽しめないというのは、単に社会に踊らされているだけではなく、自分自身にそれを楽しむ能力が欠けている可能性もある。哲学者ラッセルは「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだったと考えられていた」と言う。
つまり、ものごとを楽しむには訓練が必要なのだ。日頃から料理をしている人であれば、外食をしたときも「この味付け、どうしてるんだろう」「この野菜はどこ産だろう」と、「訓練」を受けていない人と比べるとさまざまな角度からその料理に向き合い、楽しむことができる。
ルワンダには日本ほどモノがあふれていない。村の子どもたちは布を丸めて紐でしばった手作りのボールでサッカーを楽しんでいる。そんな環境だからこそ、なにもしないことを楽しむ能力すら身についているのかもしれない。軒先でぼーっとしているルワンダ人は、時間を「消費」しているのではなく「浪費」している。時間をしっかりと受け取っているのだ。
本書の結論のひとつは、「(暇と退屈に向き合って生きるには)贅沢を取り戻すこと」。きちんと物を受け取る(楽しむ)ためには、自分自身が心から望むものを自覚することと、ものごとを楽しむ能力を養うことが必要なのだ。
退屈の三つの形式
本書では、哲学者ハイデッガーの主張にもとづいて、「退屈」が三つの形式によって説明されている。
退屈の第一形式とは、なにかによって退屈させられること。たとえば早く仕事に行きたいのに、電車が来ず駅でぐずつく時間に引き止められるとき。
退屈の第二形式は、なにかに際して退屈すること。たとえばパーティーに参加しているのに、それを楽しめないとき。気晴らしと区別できない退屈。
退屈の第三形式は、「なんとなく退屈だ」という状態。すべてがどうでもよくなってしまい、気晴らしすらもはや許されないとき。
暇がある | 暇がない | |
退屈している | 退屈の第一形式 暇を生きる術をもたぬ大衆 | 退屈の第二形式 |
退屈していない | 有閑階級 | 下層階級 |
そもそも「暇」と「退屈」の違いすら考えたことのなかった自分にとって、「暇がないのに退屈している」という状態があることすら驚きだった。たしかに「飲み会に参加しているから暇があるわけではないが、退屈はしている」という気分は嫌というほど覚えがある。
それが退屈の第二形式であり、人はふだん退屈の第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている。ちょっとした気晴らしはありつつ、自分を空虚に感じることもある状態だ。
そこからなにかが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられることがある(退屈の第三形式)。
そこで自分の心や体、状況にあえて無関心になり、仕事ややるべきことに打ち込む。好きだからというより、日々の仕事の奴隷になることで安寧を得るのだ(退屈の第一形式)。
そうすれば「なんとなく退屈だ」の声を聞かなくて済むようになり、快適になる。
なんとなく退屈だという深い不快感を感じるよりは、好きでもない仕事や心から望んでいるわけでもない気晴らしに身を投じて奴隷になってしまったほうが、むしろ快適だというわけだ。
立川談志の語る「不快感の解消」
しかし「快適」が良いことだとはかぎらない。これは本書に書かれていることではなく、たまたま見かけたショート動画で立川談志師匠が語っていたことだが、感銘を受けてメモを取っていた。
談志師匠は、当時の若手芸人に「売れる」ということについて、すべては「不快感の解消」からだと話している。売れないと不快なら、状況を把握し、判断し、処理するはず。
「この程度でいい」という人は、その状態が快適で、動くことのほうが不快だから、現状に処理をしない。10年もすれば「なんで世に出られなかったんだろう」と思うくらいチャチな世界(芸能界)。
売れないのは不快感がないか、状況処理が下手かの2点。人間がつくった社会、人間が解決できないことはない、と。
ぎりぎり平成生まれのわたしは、談志師匠に対して「昔M−1でテツ&トモに辛辣な審査をしていた人」くらいのイメージしかなかったが、この動画を見てなんと粋な人なんだと思い改めた(ちなみに大人になって、テツ&トモの芸はすごいがM-1の趣旨とは違うということもわかるようになったので、談志師匠の審査もごもっともだと思う)。
談志師匠の「不快感の解消」は、今風に言うと「コンフォートゾーンからの脱出」だ。売れていないことよりも、売れようと努力することのほうが不快だから、現状にとどまってしまう。
しかし時折「なんとなく退屈だ」という声に襲われ、なにか違う、こんなはずじゃないと悩まされつつも、現状維持のコンフォートゾーンをなかなか抜け出せないのだろう。
「売れていない」という不快感にしっかり向き合い、行動を起こさなければ、退屈のサイクルから抜け出すことはできないのだ。
ちなみに談志師匠は「不快感を自分で解決するのが『文化』、金で解決するのが『文明』」とも語っている。本書では人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵を持っており、そこから文化や文明が生まれたと書かれているが、この哲学書とおなじようなことを落語家が語っているのだ。すごすぎる。
「退屈な自分」にならないために
さて、冒頭のテーマにもどり、わたしたちが「自分にとって退屈な自分」にならないためには、どうしたら良いか考えてみよう。安定した仕事も収入も捨てて、今日明日の暮らしもままならないような状態になり、「生きている」ことを実感すれば良いだろうか。それは非現実的すぎるし、そんなことをする必要はない。安定した暮らしのなかにも、わたしたちは楽しみを見出すことができるからだ。
本書の帯裏面には、こう記されている。
人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。
食べないと生きられないものの象徴たるパン。その対比として、贅沢品のバラ。それがなくても生きられるけれど、あると人生が豊かになるものの象徴だ。
「退屈な自分」にならないためには、自分なりのバラを見つけていけば良いのだ。
そのバラは世間の声に惑わされていては見つけられないし、色や香りを感じる能力がなければ素通りしてしまう。
わたしたちは弱い。なかなかバラを見つけられなくて、もう今のままでいいやとすぐ諦めてしまう。
そしてまたあるときは、「なにかが違う。こんなはずじゃない」と悩まされる。そんな日々を繰り返している。
冬の朝、あたたかい布団から抜け出すか迷うのとおなじように、人生のコンフォートゾーンから出るかどうか悩みながら、バラを探して生きていくのだ。
取り上げた本→『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)
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