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ふだんは朝までぐっすり寝てるのに、めずらしく目が覚めてしまった今日の明け方。何時だろうと思ってスマホを見てみたらまだ3時過ぎ。なんだ、まだ全然寝れるじゃんと思ったけど、同時に目に入ったのは数時間前に入っていた「今夜仮通夜、明日が本通夜……」というLINEの通知。
その瞬間にすべてを悟って、ひらいてみたら案の定。祖母が亡くなったという母からの連絡でした。
誤嚥性肺炎になり、一度持ち直したものの、食べられなくなり体力が続かなかったとのこと。祖母は熊本の実家でぼくの両親と一緒に住んでいましたが、認知症が進んできている最中、数ヶ月前に転んで大腿骨を骨折。そこから入院して、もう息子であるぼくの父のこともわからなくなっていました。それでも元気ではあったはずなんですが、誤嚥性肺炎から一気に容態が悪くなってしまったようで、数日前に病院を訪問した母も驚くほど急なお別れでした。
ぼくはいま熊本からは遠くも遠く、アフリカのルワンダという国に住んでいます。大学で上京してからここ15年くらいは、熊本には年に1回帰る程度。そんな状況だったので、「これが最期かもしれない」という覚悟をもって毎回帰省していました。そのせいか、知らせを聞いてもまったく動揺はせず、今朝は妻や家族と淡々とやり取りをしていました。
でもお昼くらいになって、亡くなるってどういうことだろうとふと考えた時、「二度と会えなくなること」だと思ったら急に涙が止まらなくなりました。こんなに離れてるアフリカと日本でも、生きてさえいれば会いに行ける。でも、死んでしまったら、世界中どこを探しても、もうその人はいないんだと。
ぼくは生まれたときから熊本の実家で両親と兄だけでなく、祖父母とも一緒に暮らしていました。だから、今日亡くなったばあちゃんとの想い出もたくさんあります。
共働きの両親の代わりに、手を引いて幼稚園の送り迎えをしてくれたこと。かわいい動物が描かれた黄色いバスに乗ってくる友達たちがうらやましくも思えたけど、いま思えばこっちのほうが断然良いね。
「のりひろはそうじが上手ね」と褒めてもらえるのがうれしくて、雑巾片手に家中を拭いてまわったこと。おかげでちゃんと掃除ができる大人になりました。
編み物が好きでよくセーターとかプレゼントしてくれたこと。でもデザインが気に入らなくてほとんど着なかったから、もっと着てあげたらよかったなあ。タンスを開けてそのセーターが目に入るたびに罪悪感をチクチク感じてたのに、それを着て喜ばせようと思えるほど大人な小学生ではありませんでした。
5年生のとき、同級生の女の子の見た目をからかったことがありました。その日の午後がたまたま授業参観で、担任の先生から「のりひろくんが〇〇さんのことをからかったのはよくありません」と全クラスメイトと保護者の前で指摘されて、自分が大犯罪者になってしまったような気持ちになりました。もちろんぼくが100%悪いし、先生のおかげで相手の子にも謝って反省もできたんだけど、そのときに来てくれていたのも祖母でした。だから、なによりも祖母のことを「そんな性格の悪い子どものおばあちゃん」にしてしまったことが本当に心苦しかった。あのときどんな気持ちで教室の後ろに立ってたんだろうと思うと、いまでも胸が締め付けられます。
祖母は祖父と職場で出会って結婚したそうです。その会社が森永製菓(当時は森永商事?)だったからか、実家にはいつもエンゼルパイやムーンライト、ミルクココアなど森永製品が置いてありました。そしてぼくが大学生になり、就活をして、良いなと思ったのも森永製菓でした。無事に内定をもらえて、祖母と仏壇の祖父に報告できたときは金のエンゼルを当てたときよりもうれしかったです(金のエンゼルを当てたことはないんだけど)。
だから、森永を辞めて青年海外協力隊でアフリカに行くと言ったときは、母とともに祖母にも大反対されました。「なんであんたがそんな危ないところに行かんといかんとね!他の人たちに任せて、あんたは日本におったらいいたい。いまから会社に謝って戻してもらいなっせ」と。25歳当時の自分はなんで分かってくれないんだとショックでしたが、いま思えばそれも祖母の愛。結局反対を押し切ってアフリカに来ましたが、その後は受け入れてくれたのか、帰省したときも小言など言わずいつもあたたかく迎えてくれました。
そしていま一番想い出深いのは、今年の5月。妻と一緒に帰省したときのこと。妻も最近祖母を亡くして「もっとおばあちゃんと話したかったけどできなかったから、のりくん(私)は今のうちにたくさん話したほうがいいよ」と言ってくれました。それで昔のアルバムを引っ張り出して、ばあちゃんが子どものころ台湾に疎開していたことや、ひいじいちゃん・ひいばあちゃんがどんな人だったのか、この家が建て替えられる前はどんなだったかを聞くことができました。認知症もだいぶ進んでたから何度も同じ話を繰り返してたけど、やっぱり昔のことほどよく覚えてるもので。その後で母が「ばあちゃんもあんなに喋ったのは久しぶりだったからうれしかったと思うよ。ありがとう」と言ってくれるほど、たくさんしゃべってもらいました。
妻がいなかったら恥ずかしさもあってここまで話せてなかったと思うから、本当に感謝です。そして自分の家族になってくれた妻と、生まれたときから家族だった祖母と一緒に、同じテーブルで家族について話せた時間は本当に幸せな時間でした。結局それが祖母との最期になったし、もっと聞きたかったこともたくさんあるけど、後悔はありません。
ただ残念なのは、コロナ禍でだれも病院で看取ることができなかったこと。母いわく、深夜にいきなり電話で「亡くなりました」と知らされたんだそう。だからまわりに家族がだれもいないなかで息を引き取ったんだと思うと、それが悲しくて。認知症だったとは言え、「なんで誰も来てくれないんだろう」とベッドの上で思っていたかもしれません。
でも、ばあちゃんはみんなから愛されてました。前に親戚が集まった時に、祖母がいない場で父が「ばあちゃんは頑固だから、こうと決めたら全然言うこと聞かんもんね」と言っていたんです。文字だけを見ると悪口にも見えますが、そう言う表情はむしろおだやかで、まわりの親戚も「ほんとそう、困っちゃうよねー」と笑っていました。
父も含めて6人の子どもを育てた祖母は、強い女性だったんだと思います。その強さがあるからこその頑固さ。それをみんな知っていたんだと思います。だから最期の最期で寂しい思いをさせてしまったかもしれないけど、安心してねって言いたい。天国でネットが見れるかはわからないけど、どれだけみんなが尊敬していたか、感謝していたかが伝わればいいなと思います。
映画『リメンバー・ミー』の世界では、魂が完全に消滅してしまうのは「自分のことを思い出してくれる人が誰一人いなくなったとき」。残念ながら葬儀に出ることはできないけど、その代わりにぼくが死ぬまで祖母のことは覚えてるし、子どもができたらこんなばあちゃんがいたんだよって伝えていきます。いま妻と不妊治療に取り組んでいて、だからこそ芽生える命もあれば、消えいく命もあると強く実感できるようになりました。一緒に過ごせた時間は、一生の財産です。たくさんの優しさとたくさんの愛をありがとう。もう二度と会えないけど、忘れないから、忘れないで。
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