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本を読んでいると、そこに書かれている情報が実体験とうわっと結びついて「ああ、そういうことか」と腹落ちする瞬間がある。
最近そんな感覚を味わえてぞくぞくしたのが、エーリッヒ・フロムの著書『愛するということ』。いま妻とふたりで読み進めているところなので、夫婦の会話によく「エーリッヒさん」が登場するようになり、タケダ家の知的雰囲気レベルが最高潮に達している(雰囲気だけ)。
わたしがぞくぞくした一文は、「たくさんもっている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ」。
このことばがアフリカのルワンダという国での暮らしとぐるぐる結びついて、「なるほど……!」という納得感をもたらしてくれた。エーリッヒさんはこう解説している。
“与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。この生命力と能力の高まりに、私は喜びをおぼえる。私は自分が生命力にあふれ、惜しみなく消費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剝ぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである”
これがルワンダ生活とどう関係しているのかというと、この国には「与える」人が多いのだ。
ルワンダはいまだに国民の約半数が貧困ラインの1日1.9ドル以下で暮らす貧困国(世界銀行、コロナ前のデータ)。
街を歩けば見知らぬ人から「お金をくれ」「食べ物をくれ」「仕事をくれ」と言われることも少なくない。
農村部で家庭調査をしたとき、「お肉はどのくらいの頻度で食べますか?」と聞いたら「そんなの年に1〜2回だよ」と明るく笑い飛ばされた。
そんな貧しい国であるはずなのに、不思議なくらい人々は「与える」ことを惜しまない。いや、貧しいがゆえに与える喜びを知っているのかもしれない。
うちのアパートメントの警備員のおじさんは、時々野菜などをおつかいに行ってくれるが、買い物代以外のお金は頑なに受け取ろうとしない。自分の時間と労力をかけて、私たちに野菜を与えてくれるのだ。
私が運営するツアープログラムでホームステイ客をもてなしてくれるホストマザーは、バナナやトウモロコシなど、訪れるたびに大量の食べ物をお土産にもたせてくれる。
このふたりだけでなく、決して暮らしに余裕があるわけでもなかろう人たちが、これでもかと与えてくれるのだ。
それはエーリッヒさんの言うように、与えることで自分の力、豊かさ、生命力を実感できるからなのだろう。
そして私自身も、仕事を通じて与える喜びを実感している。私のおもな仕事は、アフリカやルワンダの現状を日本の人々に伝えること。
アフリカに来る前は大手食品メーカーの営業マンだったが、その時は「与える」というより、会社がつくった商品を取引先に「流す」ような感覚だった。優秀な営業マンは自社にも得意先にも消費者にも、自分なりの価値を与えられるんだろうけど、当時の私にはそんなことできていなかった。
でもいまは自分でつくったサービスを、自分で提供して、直接「ありがとう」と言ってもらえているから、ものすごく満足感がある。年間予算1億円くらいあった営業マン時代と比べると、お金の規模はビクトリアの滝と水道水ぐらい違う。それでも、いまのほうが圧倒的にジャンボな豊かさを感じられている。
学生時代に相談に乗ってもらっていた、尊敬する社会人の先輩が「社会人と学生の違いは、与える側か与えられる側かだよ」と教えてくれた。このことばはいまでも私の心のなかで金ピカに輝いている。
「自分は目の前の人に何を与えられるのか」
そう問い続けながら、これからも世界と関わっていきたい。
たくさんもっている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだから。
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