祖父との思い出〜自分のルーツを振り返ろう〜

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タケダノリヒロ( @NoReHero

クリスマス・イブですね。2018年ももうすぐ終わりです。今年は個人的に結婚、移住、起業ととてつもなく大きなイベントが続いた年でした。

新しい年に向けてさらにレベルアップしていくために、自分自身について幼少期から振り返っています。そこではじめに思い出したのがじいちゃん(父方の祖父)のこと。じいちゃんとの会話ややり取り、その意味などを考えていたら、泣いてたことが妻に一瞬でバレるくらいエモい気分になってしまいました。鼻が真っ赤です。クリスマスだけに。

それだけ感情を揺さぶられるということは、祖父という人が自分に大きな影響を与えているということ。ということで、祖父との思い出を書き残しておきます。以下、日記調で書きなぐってます。

祖父との思い出

お墓参りで見たじいちゃんの弱さ

じいちゃんとの思い出で、いつも思い出すのはお墓参り。お墓は家から徒歩20分くらいだったから、じいちゃんに連れられてよくふたりで熊本の浄行寺あたりを歩いた。

不思議だったのは、お墓に向かう途中でじいちゃんが「ちょっと休もう。疲れた」と言ってバス停のベンチで休んでいたこと。ぼくはまだ元気な幼稚園児だったから、「なるほど、お年寄りはちょっと歩いただけでこんなに疲れちゃうのか」と静かに、だけど新鮮に、「人間は老いる」ということを知った。

じいちゃんは頑固で厳格な一家の「長」。祖父母、両親、3つ上の兄、ぼくの6人家族のボスだった。熊本の人だし、ああいう人がいわゆる「九州男児」なのかもしれない。家事はいっさいしなかった。テレビのチャンネルは、じいちゃんが朝から新聞のテレビ欄に赤えんぴつでつけたしるしに沿って変えられた。とにかく「強い人」というイメージ。

昔はもっときびしかったらしく、伯母たちは口を揃えて「前はもっとこわかったのよー」と言った。年上のいとこたちも、じいちゃんに会いに熊本に来るのはこわかったらしい。でもぼくと兄にはやさしかった。たぶんいとこの中でも一番年下だったし、じいちゃんも晩年は丸くなったんだと思う。だからNHKのニュースを観ていても、「ドラゴンボールを観たい」と言うと変えてくれて、おかげでかめはめ波の打ち方も覚えた。

そんな強いじいちゃんの「弱さ」を墓参りに行く途中のバス停で初めて見た。そこから、「人間は心は元気でも体は衰えるんだ」という人生の理を学んだように思う。

だれかのためにはたらくということ

そんなじいちゃんは、いっしょにお墓参りに行くとかならずお小遣いを500円くれた。お風呂掃除をしても50円をくれた。そして「お風呂を洗った日はカレンダーに丸をしなさい」と言った。

あのときじいちゃんはどんな気持ちでぼくにお小遣いをくれたんだろう。なにを思ってカレンダーに記録を残させたんだろう。

単純に孫が可愛かったからかもしれないし、「だれかの役に立ったり喜ばせたりすればその対価をもらうことができる」ということを教えようとしてくれたのかもしれない。

でもぼくはまだ小さかったから、お金をもらってもそんなにうれしくなかった。ただ、「墓参り、手伝ってくれてありがとう」と言われるとじんわりした気持ちになったし、カレンダーにお風呂掃除の証である「○」が増えていくのはとても誇らしかった。50円玉も500円玉も、小さな手にはずっしりと重かった。

なんてことのない記憶

うちの居間にはロッキングチェアがあった。お父さんの姉弟がなにかのお祝いで贈ったもの。そこはじいちゃんの指定席で、ぼくはその膝の上(正確には脚の間)に座るのが好きで、そのときのこともよく覚えてる。

髪の毛の匂いを嗅がれて、「きょうはちゃんと洗わなんね」と言われたこと。

巨人戦を見ていて、他の人が「松井」と呼ぶ選手のことを「松井さん」と律儀にさん付けしていて、妙に感心してしまったこと。

相撲を見ていて「どっちが勝つと思う?」と聞かれ、まわしの色で好きな方を選んで答えていたこと。

なんてことのない記憶だけれども、これだけ鮮明に覚えているということは、ぼくにとってきっと大事な記憶なんだろう。

プールの見える病室

ぼくが小学校に上がってから、じいちゃんは入退院を繰り返していた。入院していたのは、清永病院という竹田家かかりつけの病院。ぼくの通っていた黒髪小学校の隣にあった。

夏、お見舞いに行ったとき「昨日、水泳の授業があったか?」と聞かれた。病室の窓からは、ぼくらの学校のプールが見える。それはぼくらの5年1組だったかもしれないし、4年3組だったかもしれない。仮にぼくのクラスだったとしても、じいちゃんが病院の3階の窓から泳いでいるぼくを見分けられるとは思えない。それでも、見守られている気がした。

ばあちゃんとじいちゃん

中学校にあがる前に、じいちゃんは亡くなった。脳梗塞だった。当時のぼくはまだそこまで人の「死」というものを受け止めきれるほどの器もなかったからか、特に悲しいとも思わなかった。

悲しいと実感したのはもうちょっとあとで。バラエティ番組に宜保愛子さんという霊能力者がよく出てたときのこと。そのおばちゃんは「窓を開けて亡くなった人の写真を抱えて数分その人のことを考えていれば、夢でその人に会えます」的なことを言っていた。

もう中学生のぼくはそんなことは信じない。でも、うちのばあちゃんはそれを実行した。もちろん心から信じてたわけじゃないと思うけど、きっとじいちゃんに会いたかったんだと思う。

だから、翌朝「やっぱり会えんかったよ」と言うさびしそうなばあちゃんの顔が忘れられない。ばあちゃんにそんな思いをさせた宜保愛子さんにもちょっとした憤りを覚えた。そして、九州男児で、頑固で、家事も全然しないじいちゃんだったけど、それだけ妻に愛されていたんだと感じた。

強くなりたかった

それから大学生になって、上京して、たまに帰省するとき、お風呂の中でよくじいちゃんのことを思い出した。ここでいっしょに入ってたなと思いながら、勝手に流れてくる涙をお湯でバシャバシャと洗い流した。

じいちゃんが太い腕でぎゅっと絞ったあとのタオルを、自分も真似してまだお湯をしぼり出せたとき、「やった!勝った!」と意味不明なよろこびを感じてた。身近で圧倒的に「強い」人だったじいちゃんを見て、ぼくも強くなりたかったのかもしれない。だから一生懸命オーレンジャーレッドの変身ポーズを真似たし、かめはめ波も撃とうと思って練習した(出なかった)。

じいちゃんとおなじ会社に入った

社会人になったぼくは、希望していた森永製菓に入社した。「世界の子どもたちに貢献する」というビジョンに共感したのもあったけど、「じいちゃんとばあちゃんが昔勤めていた」という理由も大きかった。

そう、ぼくはじいちゃん・ばあちゃんとおなじ会社に入った。ふたりはそこで出会ったんだって。だから、入社したときばあちゃんはすごくよろこんだ。母にうながされて「森永に入社しました」と仏壇のじいちゃんにも報告した。

でもぼくはその会社を3年で辞めた。そして青年海外協力隊としてアフリカのルワンダに行った。家族には退職が決まってからの事後報告だったので、母には「なんで辞めたとね!?」と非難されたし、ばあちゃんにも「いまからでも会社に戻してほしいって言いなっせ」と言われた。それでも揺らがなかった。会社は好きだったし、仕事も楽しかったけど、もっとやりたいことがあると気づいてしまったから。

結局反対を押し切ってルワンダでの2年間の任期をまっとうして、帰国して、起業するためにまたルワンダにもどってきた。もう母にもばあちゃんにも反対はされなかった。全力で、とは言わないまでも、ふたりとも応援してくれているみたい。じいちゃんが生きてたら、なんて言ってたかな。

ぼくも来年で30になる。それでも生きてきた時間は、あの頃のじいちゃんの半分にも満たない。あれからぼくは強くなれただろうか。

今朝、ルワンダのアパートメントの3階のベランダで洗濯物を干してたら、お見舞いに行った病室の記憶がフラッシュバックしてきた。きっとあの病室とおなじくらいの高さだったから。

あのときじいちゃんは、病室からプールを見守ってくれていた。もしかしたら、いまもどこかで見てくれているかもしれない。

じいちゃんに見られても恥ずかしくないようにがんばって泳がないと。

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