タケダノリヒロ( @NoReHero)
大学生3人がクラウドファンディングを使って、フィリピンのスラム街に行くための費用を集める企画を立ち上げたところ、炎上してしまい、企画自体も取り下げてしまう、ということがありました。
↑炎上のきっかけとなったと思われるツイート
ツイッターや企画のコメント欄にはトゲのあることばが並んでいましたが、わたしが感じたのは「そんなに言うほど悪い??」という戸惑いです。
国際協力、国際交流にたずさわるものとして、あまりにもひっかかるできごとだったので整理してみました。
個人的な結論としては、応援したい人が応援すればいいし、応援したくないならスルーすればいい。問題があるなら建設的なアドバイスをすればいい。なのに、人格を否定するような発言や嘲笑するような批判があまりにも多い。浅はかな行動をとる若者よりも、それをあざ笑って挑戦者が出づらい空気をつくる社会のほうが問題だと思っています。
プロジェクトの概要
すでにキャンセルされてしまって企画ページは見れなくなってしまったのですが、このようなプロジェクトだったと記憶しています。
・男子大学生3名が、フィリピンのスラム街に行って「子どもたちに夢を与える」ための費用を募集
・その過程をドキュメンタリーとして撮影・発表する(映像制作はこれから学ぶ)
・募集費用は渡航費など含めて25万円(こつこつとバイトはしているが足りない)
・きっかけは知人の社長のことば。「夢や目標は?」と聞かれても答えられなかった。「孫正義氏は外国への投資によって、自分の利益だけではなくその国の成長も願っている」という話を聞き、「だれかのためになにかをしたい」という思いに駆られる
・そこで選んだのが、まずしい子どもたちが暮らしているフィリピンのスラム街
・スラム街の子どもたちとの交流を通じて、彼らに夢を与えたい
・ゴミ山の問題など、まずは自分の目で確かめてみたい
・自分たちの取組みを通じて日本人にも刺激を与えたい
※筆者の記憶している情報です。間違っている可能性もあるので参考まで。
批判や意見
このプロジェクトに対して、以下のような意見・批判が寄せられました。ツイッターより。
イライラ、嫌悪感を感じる人がかなり多いようです。その理由をまとめてみました。
・現地の人に寄り添っていない(単なる興味関心の対象として利用)
・最悪死ぬ可能性がある
・プロジェクトに良さを感じられない
・浅はか
・スラムに夢がないと決めつけている
・「夢を与えられる」という上から目線
・そもそも必要なのは夢じゃない
・具体的でない
・自分のお金で行けばいい(他人のお金に頼るな)
「現地の人に寄り添っていない」「最悪死ぬ可能性がある」「自分のお金で行けばいい」という3点について、思うところを書きました。
現地の人に寄り添っていない
「現地の人に寄り添っていない」
これはたしかに大事な視点です。一方的な支援は、押しつけやありがた迷惑にしかなりません。
でも、彼らはこれから「寄り添おう」としているところですよね。プロジェクトを始めるところなんだから、寄り添えていなくて当たり前です。それが一回きりになってしまうかどうかも、行ってみなければわかりません。
もしかしたら、これがきっかけで「寄り添える」関係性を築いていけたかもしれません。
それに「寄り添えているかどうか」は現地の人が決めること。「スラムの子どもたちはきっと迷惑がるに違いない」という憶測だけで外野から批判するのはどうなんでしょうか。
死ぬ可能性がある
「死ぬ可能性がある」
フィリピンのスラムの危険性を知っている人が言うのであれば、これはもっともな指摘です。きちんとリサーチと対策をすべきですよね。
ただ、それでも本人たちが行きたい、というのであれば、まわりがすべきことは「批判」ではなく「忠告」です。心ないことばを投げつけていい理由にはなりません。
自分のお金で行けばいい
「自分のお金で行けばいい」
これはクラウドファンディングにはよくある批判ですよね。たしかに3人で25万円くらいだったら、必死でバイトをがんばれば1ヶ月くらいで貯められそうな金額です。
でも、べつにクラウドファンディングを使っても良くないですか?
これが個人的に最大の疑問なのですが、支援したくないのならしなければいい。それで終わりじゃないですか。
なのになんでわざわざ「他人のお金で行くなんて甘い!」って言う必要があるの?いいじゃん別に。支援したい人が支援するんだから。言った本人は気持ちいいかもしれませんが、そんな感想は大学生や社会にとってはまったく有益ではありません。
わたしの考え
たしかにわたし自身、プロジェクトの内容を読んでも、この大学生を手放しで応援したいとは思えませんでした。
動機や目的もふわっとしているし、文章や写真からは「悪ふざけ感」すら感じました。でも、もし彼らがスラム街に行くことができたら、かならずなにかの「きっかけ」を掴むことができたはずだと思っています。
悲惨な現状を目の当たりにして自らの非力さに気づいたかもしれませんし、逆に思っていたよりも子どもたちは幸せそうに暮らしていて「夢を与える」という想いが上から目線だったと反省することができたかもしれません。その経験を糧に、社会問題を真剣に考え、新たな価値を生み出せるような人になれるかもしれません。
現地に足を運んで、自分の目で見て、手で触れて感じたことは、体験した人にしかわからない、かけがえのない経験になります。彼らだけではなく、どれだけおちゃらけたウェイ系の大学生でも、きっとなにかしら感じるものはあると信じています。
だから、若者がそうやって変化し成長する「きっかけ」はもっと与えられるべきだし、ちょっとぐらい考えや行動が浅はかでも見守ってあげられるような、もっと寛容な社会であるべきです。
なのに、そんな若者たちの芽を摘み、バカだの死ねだのということばを平気で浴びせる人たちがこんなにもたくさんいる現状が残念でなりません。
今回活用されたクラウドファンディングサービス「CAMPFIRE」を立ち上げた家入一真さんは、この件に関して直接発したコメントではありませんが、こんなツイートをしています。
「意識高かろうがプライド高かろうが、例えそれが薄っぺらい言葉であろうが、それでも、少しだけでも、世界を良くしようとする人たちを嘲笑う世の中は、底なし沼ですよ」
ほんとうにその通りだと思います。
わたし自身は、大企業に勤めながら参加していた社会貢献活動に「手触り感」の不足を感じて、青年海外協力隊として2年間アフリカのルワンダでボランティアをしてきました。
ボランティアとして個人ができることなんて限られていて、毎日「無力感」を感じる日々でした。
それでもわたしたちと交流するだけでも喜んでくれる現地の人たちはたくさんいたし、「自分にはまだなにもできない」という悔しさを痛いほど感じられたからこそ、「もっと大きな価値を生み出せる人間になろう」と前に進むことができました。
誰だって最初は未熟だし、いきなりすごい成果を出せる人なんてめったにいません。
だから、まずは「はじめの一歩」を踏み出すことがなによりも大事なんです。そこからひとつずつ経験と実績を積み上げていけばいい。
だけどその一歩を踏み出すのが難しいから、クラウドファンディングというサービスがあるんです。
「他人のお金を使うなんて」と反感を覚えたのならスルーすればいいし、「応援したい」と共感を覚えたのなら支援すればいい。
そうやってだれかの「はじめの一歩」を、みんなで後押ししてあげることで、世の中がすこしずつ良くなっていく。
なのにこんなふうに大学生がファーストステージから罵声を浴びせられる姿を見せられたら、「挑戦しようかな」と思っていた人たちも縮こまって出てこれなくなってしまいます。
他人の挑戦や失敗をあざ笑う社会と、厳しくもあたたかく見守る社会。どちらが幸せですか。
青年海外協力隊を終えて感じた葛藤
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