「わたしと仕事、どっちが大事なの?」という台詞や、「自分探しの旅」という行為。
一見くだらないと思ってしまいそうなものですが、これらの正当性を担保してくれるのが「個人」ではなく「分人」という考え方です。
作家の平野啓一郎さんがこちらの本で、ごく簡単なことばや身近な例を使ってやわらかく説明してくれています。
恋人といるとき、家族でいるとき、職場にいるとき、仲間といるとき、人はそれぞれ別の顔を見せる。それは演じられた偽物の自分ではなく、全部本当の自分である。一人の人間の中に多様な個性が共存すると説く分人主義の本。
引用:新世代CEOの本棚
これを読んで、いままでモヤモヤとしていた人間関係の在り方をスッキリと理解することが出来ました。
「自分とは何か?」「恋愛とは何か?」と考えるのが好きな方におすすめです。
「分人」って何?
そもそも「分人」とはどういうことか?
「個人」ということばは、英語の「individual(分けられない)」を訳したものです。
しかし、ひとりの人間はほんとうに『それ以上分けられない存在』なのでしょうか?
著者はこのように語っています。
一人の人間は、「分けられない individual」存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。
一人の人間の中には、複数の分人が存在している。両親との分人、恋人との分人、親友との分人、職場での分人、……あなたという人間は、これらの分人の集合体である。
個人を整数の1だとすると、分人は分数だ。人によって対人関係の数はちがうので、分母は様々である。そして、ここが重要なのだが、相手との関係によって分子も変わってくる。
関係の深い相手との分人は大きく、関係の浅い相手との分人は小さい。すべての分人を足すと1になる、と、ひとまずは考えてもらいたい。
つまり、図に表すとこういうことです。
例えば、会社の人と接する場合。
さまざまな分人の中から「会社」向けの分人が出てきます。
これは意図的に性格を変化させているわけではなく、自然とそうなってしまうもの。
接する相手によって、「自分」は違うんですね。
ぼくも、学校で友だちと話す自分と、家で親と話す自分が違うことに違和感を覚えていました。
でも、それは決してソト向きの自分が偽者で、ウチ向きの自分が本者だというわけではないんですね。
たったひとつの「本当の自分」は存在せず、相手によって分人が自然に切り替わっていると考えるとさまざまなことに合点がいきます。
分人の3ステップ
平野さんの語る「分人」の発生過程には、3つのステップがあります。
- 社会的な分人(不特定多数の人向け=同じマンションの見知らぬ住人や、コンビニの店員)
- グループ向けの分人(学校や会社、サークルなどで関わる人向け)
- 特定の相手に向けた分人(より深いコミュニケーションを取れる人向け)
海外でグイグイ来られるのが嫌な理由
1の社会的な分人に関して、こんな例が挙げられていました。
コンビニやファミレスのレジに向かう時、私たちは、特別に店員と彼の個性に応じたコミュニケーションを図る必要がないので、お互いに社会的な分人同士で接しても、何ら支障がない。コンビニ店員の接客用語は、マニュアル化されすぎているとよく批判されるが、日本ではどうも、こういう時に一々、個別に分人化することを嫌う傾向がある。
客は、おにぎりだの烏龍茶だのが買えれば十分で、十年来通い続けている商店街の魚屋で交わされるようなやりとりを求めているわけではない。相手が必要以上の分人化を求めてくれば、ヘンな人とでも思ってしまうのが日本人である。
現在ぼくはアフリカのルワンダで暮らしていますが、これを読んでハッとしました。
初めて会った通りがかりのルワンダ人に馴れ馴れしく話しかけられて、「なんだか居心地が悪いな」と感じてしまうことがよくあるからです。
これはまさしく「必要以上の分人化を求められている」からなんですね。
こっちはコンビニの店員と話す「社会的な分人」感覚なのに、向こうは地元の商店街の魚屋と話す「グループ向けの分人」感覚で話してくる。
気軽に話しかけてもらえるのは良いことでもあるので、こういった違いを踏まえたうえで海外でも上手くコミュニケーションを取っていきたいですね。
自分探しの旅をする理由
よく批判される「自分探しの旅」について。
「自分探しの旅」は、文字通りに取るとバカげているように感じられるが、じつは、分人化のメカニズムに対する鋭い直感が働いているのかもしれない。なぜなら、この旅は、分人主義的に言い換えるなら、新しい環境、新しい旅を通じて、新しい分人を作ることを目的としているからだ。今の自分の分人のラインナップには何かが欠落している。本当に充実した分人がない。従って、それらの総体からなる自分の個性に飽き足らない。…… 実際、海外生活での分人に意外な生き心地を発見して、現地でコーディネーターなどの職に就く人もいる。その時に、理想的な構成比率の分人を生きられるようになった(=自分が見つかった)ということは、祝福されるべきことだ。
海外で生活していると、自分の知らなかった一面(ここで言う「新しい分人」)が出てきて驚かされることがよくあります。
今の自分の「分人ラインナップ」に納得行っていないのなら、新たな土地に行き、新たな出会いを得て、新たな分人を引き出してみるのも良いかもしれませんね。
恋愛における分人
恋愛関係も「分人」の観点から考えることで、スッキリと理解することが出来ます。
なるほどと思った箇所を引用。
人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、意外と言えるのではないだろうか? 逆に、別の誰それといる時の自分は嫌いだとも。そうして、もし、好きな分人が一つでも二つでもあれば、そこを足場に生きていけばいい。
愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態のことである。つまり、前章の最後に述べた、他者を経由した自己肯定の状態である。
愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。
今つきあっている相手が、本当に好きなのかどうか、わからなくなった時には、逆にこう考えてみるべきである。その人と一緒にいる時の自分が好きかどうか? それで、自ずと答えは出るだろう。
「愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。」
これは名言ですねー。
「わたしと仕事、どっちが大事なの?」が正当な疑問である理由
「わたしと仕事、どっちが大事なの?」
ドラマなどでよく耳にするこの台詞。
「そんなもん比べられるわけないじゃん」と思ってしまいますが、「分人」の観点から考えると比べられちゃうんですね、これが。
──そう考えるならば、「わたしと仕事、どっちが大事なの?」という問いは、必ずしも突拍子もないものではない。
仕事のための分人が大きく肥大して、恋人との分人が相対的に小さくなっている人は、普段は仕事に没頭し、休日にはその分、ゆっくりしたい。しかし、仕事は特に忙しくなく、恋人との分人が最も大きなウェイトを占めている人は、せめて休日くらいは、自分との分人だけを生きてほしいと願う。自分との分人は、彼にとって大して重要でないのだろうかと思うと、悶々としてくる。それが不和の火種となる。その意味では、パートナーはよく似た分人のバランスを持っている人が理想的なのかもしれない。
これはすごく納得。
仕事モードの比率が高まっているときに「かまってかまって」と来られると「暇かよ」と思ってしまいますし、逆に会いたい・話したいと思っているのに冷たくされると不安になってしまいますよね。
分人のバランスが恋愛において最重要というわけではないと思いますが、相性を考えるうえでのひとつの要因にはなりそうです。
この本は、平野さんの小説『ドーン』で登場した「分人主義」のエッセンスをまとめられたもの。この中で語られる「個人」と「分人」に対する考え方がとてもおもしろかったので、小説も読んでみたくなりました。
『私とは何か 「個人」から「分人」へ』 おすすめです。
タケダノリヒロ(@NoReHero)