ベルギー平和維持軍祈念館(Belgium Peacekeepers Memorial)から学ぶルワンダ虐殺

 タケダノリヒロ( @NoReHero

ベルギー平和維持軍祈念館Belgium Peacekeepers Memorial)は、1994年のルワンダ虐殺にて国連の平和維持活動において犠牲になった10人のベルギー兵を追悼するための場所です。

首都キガリの「ムムジ」と呼ばれる中心街に位置しています。

Belgium Peacekeepers Memorial外観

ルワンダ首相(当時)の護衛をしていた10人の兵士は、国連基地への安全な通過と引き換えにFARから武装解除を命じられました。

その後、軍事キャンプだったこの場所に連れて来られ、殺害されてしまったのです。

部屋の隅に残る銃弾や焼夷弾の後

館内にはその当時のできごとが詳細に記されたパネルが展示してあります。

館内の様子

この記事では、これらのパネルの写真とともに日本語に訳しました(撮影許諾済)。

日本語訳について
日本語訳はすべてタケダによるものです。わたしはルワンダでツアー業をおこなっており、渡航者の方にジェノサイドについて簡単に解説することなどもありますが、研究者ではないためまだまだ知らないこと・勘違いしていることもたくさんあると思われます。事実誤認や固有名詞の訳し方などに誤りがある場合は、お手数ですが教えていただけるとありがたいです。

どのような流れでこのような悲劇が起きてしまったのでしょうか。

室内の黒板には将校の名やどくろが描かれています

事件の背景

パネル1

1950年代後半。脱植民地化の大きな波の中で、ルワンダは1962年にベルギーから独立すると、社会的緊張と民族対立の悪化を経験しました。

1993年8月。アフリカ統一機構(OAU)と地域政府の和平努力の甲斐もあり、アルーシャ協定への署名は当時のルワンダ政府ルワンダ愛国戦線(RPF)間で1990年に始まった紛争を終わらせるかに見えました。 1993年10月、国連安全保障理事会は、平和を維持し、人道支援を提供し、和平プロセスを全般的に支援するという任務を持つ国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)を設立しました。

 

パネル2

1994年4月6日。ミサイル発射による飛行機事故でブルンジとルワンダの大統領が死亡したため、ツチ族に対する大量虐殺が引き起こされました。これは数か月にわたって準備されていたものです。約100万人の犠牲者が殺害されたと推定されています。 飛行機が墜落してから30分も経たないうちに、フツ族民兵が支配するバリケードが時には憲兵や軍人の助けを借りて、ツチ族を特定して殺すために設置されました。

4月7日、千の丘自由ラジオ(RTLM)は、RPFおよびベルギーのUNAMIR兵士に飛行機墜落の責任を負わせる内容の番組を放送し、フツ族に「ゴキブリであるツチ族」の排除を奨励し始めました。 その日遅くに、アガート・ウィリンジイマナ首相彼女を保護しているベルギーの10人の平和維持軍は、ルワンダ政府の兵士によって残酷に殺害。 ベルギーは兵士の虐殺を受けて、すべての平和維持部隊を撤退させることを決めました。

1994年4月6〜7日の出来事

パネル3

4月6日20時30分:キガリ空港に到着した、ルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナブルンジ大統領シプリアン・ンタリャミラの乗る飛行機はミサイルで撃墜され、ブルンジの2人の大臣、ルワンダ軍の参謀長、内閣のメンバー、フランス人乗組員も殺害されました。

停戦は突如終わりを告げます。ベルギー人が大統領の飛行機を撃墜したという噂が広まったのです。

22h00:危機委員会が設置。 UNAMIRの軍司令官であるロメオ・ダレール将軍は会議に出席し、国防省官房長のテオネステ・バゴソラ大佐を見つけます。ウィリンジイマナ首相(大統領の後継候補)に演説をさせるという提案は拒否されました。

4月7日、01h18:それにも関わらず、キガリのUNAMIRセクター司令官であるダレール将軍の命令で、リュック・マルシャル大佐はベルギー第2コマンド大隊に首相をラジオ・ルワンダまで護衛し、その場所を確保するよう指示。 彼女は05h30に国民に向けて演説することになっていました。

大隊の指揮官であるジョセフ・デューズ中佐は、この非常に緊張した環境でのこの任務に疑問を呈しています。

02h16:空港で2台のジープに燃料を補給していた第2コマンド大隊の迫撃砲小隊のティエリー・ロタン副官は、この任務を遂行するよう命じられます。 彼はジープ4台(通常のパトロールの2倍)を使いました。

03h19:ミッションを遂行するためのルートで、ロタン中副官は首相の家からわずか1キロのバリケードで止められます。 ルワンダの連絡係は現れず、彼と交渉する貴重な時間を失ったのです。

05h12:最終的にロタン副官は別のルートに誘導されます。市内では散発的な銃声が聞こえていました。

 

パネル4

05h42:迫撃砲小隊のジープが目的地に到達。彼らはUNAMIRの5人のガーナ兵と5人のルワンダ人憲兵、首相のボディーガードらと合流します。その直後に、装甲車両と大統領警備隊を率いるルワンダの兵士たちが彼らを囲み、家に発砲しました。

05h47:ロタン副官は状況を報告。ラジオ局への護衛任務はキャンセルされます。ロタン副官の部隊は、ルワンダ人兵士が彼らにはまだ発砲していなかったので反撃していませんでした。デューズ中佐もまた、そうしないように指示していました。

06h03:部隊はジープが破壊されたと報告。

06h55:ルワンダ兵たちは、部隊に武器を下ろして降伏するよう命令。デューズ中佐ロタン副官にその命令には応じず交渉するよう指示しました。

07h00:首相の家から約2キロ離れたところにいる第2コマンドーの中隊長は、強化小隊に介入するよう提案。大隊司令部はこの提案を拒否しました。

07h40:首相はボディーガードによって護衛され隣家に避難。その後(11h45)彼女と夫は大統領警備隊によって発見、処刑されます。

08h44:ロタン副官は彼を取り巻くルワンダ兵の非常に攻撃的な姿勢について報告。 第2コマンドー大隊は、大隊の周波数を盗聴しているマーシャル大佐に指示を要求しました。

08h49:デューズ中佐は武器を捨てないようにチームに繰り返し指示しますが、時既に遅し。4人の男性がすでに武装解除され、身動きを取れなくされていました。ロタン副官は大隊とセクター司令部の承認を得て降伏します。

ベルギー部隊とガーナ兵の両方が、ルワンダ軍本部のベルナール・ントゥヤハガ少佐によって捕虜にされます。彼らはミニバンで「安全な場所」に運ばれました。

 

パネル5

午前9時頃、彼らはルワンダ軍の複合施設であるキャンプキガリに到着。

ロタン副官は近くの衛兵所にいるコジョ・アペド大尉と合流します。大尉は、キャンプ内のトーゴ人UNAMIRの憲兵です。

同時に、ントゥヤハガ少佐は、ベルギー人捕虜らが大統領の飛行機を撃墜したという噂を広めました。彼はルワンダの兵士を招集。棍棒や石、ライフルを携えた暴徒は、武装していない捕虜たちにリンチを開始します。

09h06:副官はトーゴ人大尉のラジオを使用して、彼の苦境について最後にもう一度上層部に連絡しました。

09h08:デューズ中佐は、介入するためのサポートをセクターコマンドに要求。マルシャル大佐ダレール将軍のスタッフのメンバーに通知し、10時に予定されている会議中にルワンダの指導者とこの問題に取り組むことを提案します。

それまでの間、ロタン副官メンバーのうち4人はリンチに耐えることができませんでした。重傷を負った他の者たちは暴徒から解放され、なんとか国連の任務室に入りました。衛兵所にバリケードをつくり、命をかけて戦い始めます。

キャンプキガリの反乱は、ルワンダ兵が武器庫に侵入して武装することで完了します。衛兵所は大火災に見舞われ、別のベルギー特殊部隊が殺されました。

攻撃の一時停止中、アペド大尉と5人のガーナ兵が衛兵所から引き抜かれます。

 

パネル6

10時直前:ダレール将軍は本部を離れて会議に参加。到着するまでに1時間かかりました。彼はベルギーのUNAMIR兵が事件に巻き込まれていることを知ります。

10h40:ルワンダ兵が衛兵所に入ろうとすると、ピストルを保持することを許可されていたロタン副官によって武装解除され殺されます。銃が交わされ、一部のルワンダ兵は負傷、死亡しました。

10h50:彼の会議に向かう途中、ダレール将軍は、現場からわずか30メートルのキャンプ・キガリの門の前を通ります。彼は地面に横たわっているUNAMIR兵の死体を目にします。車を止めたいと思いましたが、ルワンダ人運転手は拒否、反乱が進行しているので安全ではないと彼に言いました。

10h55:ダレール将軍は現場からわずか200メートルの会議場に到着し、アペド大尉と施設を離れることを許可されたガーナ兵に会います。彼らはキャンプ・キガリで起こっていることを知らせました。驚いたことにダレール将軍はこの状況に対処するための何のイニシアチブもとっていません。 12時15分まで続く会議中、彼は事件についても言及すらしませんでした。著書『Shake Hands with the Devil』で述べたように、彼は「状況を把握しようとしていた」のです。

13時頃:催涙ガスと爆発性手榴弾が屋根の穴から投げ込まれます。それはベルギー特殊部隊の英雄的な抵抗に終止符を打ちました。

午後には、略奪され切断された遺体はキガリ病院の遺体安置所に搬送され、敬意を払うことなく積み上げられます。夕方、ダレール将軍は病院を「訪問」しましたが、何人の兵士が死んだかもはやわかりませんでした。

出典:Belgian parliamentary commission of inquiry

UNAMIRについて

パネル7

安保理決議872は、1993年8月4日にルワンダの当事者によって署名されたアルーシャ協定の実施を支援するために、1993年10月5日に国連ルワンダ支援団(UNAMIR)を設立。

UNAMIRの元々の任務
– 首都キガリの安全を確保するためのアシスト
– 非武装地帯の拡大と動員解除手順を含む停戦協定の監視
– 選挙に至るまでの暫定政府権限の最終期間における治安状況の監視
– 地雷除去の支援および救援活動に関連する人道支援活動の調整支援

UNAMIRに関する詳細

パネル8

期間:1993年10月から1996年3月

戦域定員(1993年10月5日〜1994年4月20日):
2,217人の編成部隊を含む2,548人の軍人
331人の軍事監視員と60人の文民警察官:インターナショナルおよび現地採用の文民スタッフによってサポート

事務局長の特別代表および代表団長:
ジャック・ロジャー・ブー・ブー(カメルーン)
1993年11月〜1994年6月
Shaharyar M. Khan(パキスタン)
1994年7月〜1996年3月

軍隊司令官:
ロメオ・A・ダレール少将(カナダ)
1993年10月〜1994年8月

警察官:
マンフレッド・ブリーム大佐(オーストリア)
1993年12月〜1994年4月

軍人および文民警察官の貢献者:
アルゼンチン、オーストラリアオーストリア、バングラデシュ、ベルギー、ブラジル、カナダ、チャド、コンゴ、ジブチ、エジプト、エチオピア、フィジー、ドイツガーナ、ギニア、ギニアビサウガイアナ、インド、ヨルダン、ケニア、マラウイ、マリ、オランダ、ニジェール、ナイジェリア、パキスタン、ポーランド、ルーマニア、ロシア連邦、セネガル、スロバキア共和国、スペイン、スイス。トーゴ、チュニジア、イギリス、ウルグアイ、ザンビア、ジンバブエ

400人以上の部隊を擁するベルギーは、UNAMIR内の主要な部隊貢献者の1つでした。

UNAMIRの失敗

パネル9

1999年6月、1994年にルワンダで行われたツチ族の大量虐殺の際に国連がとった行動に関する独立した調査が、当時の国連事務総長コフィ・アナンの後援の下で開始されました。

報告書から引き出された主な結論
・ジェノサイドを防止または停止するうえで必要な行動を実施するための、国連側の資源と意欲の欠如
・UNAMIRが、和平プロセスへの脅威に続いて確固とした積極的な役割を果たすための計画、展開、訓練、または適切な規模ではなかったという事実
・ジェノサイドを防止または停止するには、UNAMIRの任務が不十分であったという事実
交戦のルールに関する混乱と混同の存在
・一方ではUNAMIR内、他方では国連本部内の組織的問題の存在

平和維持活動

パネル10

・平和維持活動(PKO)とは?
国連(UN)平和維持活動(PKO)は、紛争に苦しむ国々が持続可能な平和のための条件を作り出すのを助けます。 PKOは平和構築に必要な、安全と政治的支援を提供する平和維持軍(軍隊、警察、民間人)に支えられ、3つの基本原則に基づいています。
当事者の同意
公平性
武力の不使用(権限の自衛または防衛を除く)

・PKOの進化と国連平和と安全の柱の改革:
1990年代、特にバルカン、ソマリア、ルワンダでのいくつかの国連ミッションの失敗に続いて、平和維持の改善を目的とした改革の期間が組織内で始まりました。

ベルギーとルワンダはともに、2005年の世界サミット宣言で国連によって初めて導入された「保護する責任」(R2P)の概念を支持しました。

UNSCへの最新の参加を通じて、ルワンダ(2013-2014)とベルギー(2019-2020)は、民間人の保護が平和維持の任務の中心にあることを保証しました。 2015年に採択された「キガリ原則(Kigali Principles)」は、これらの共通基準を深めるのに役立ちました。

 

パネル11

2018年3月、アントニオ・グテーレス事務総長は、「PKOのための行動」(A4P)イニシアチブを開始しました。これは、国連の平和維持をより効果的かつ現場の新しい現実に即応させるための新しい枠組みになりました。

このイニシアチブをきっかけに、150を超える国と国際機関が「PKOに関する共同コミットメント宣言」に参加しました。宣言は、平和維持に対する政治的コミットメントを更新するための新しい議題を設定し、国連平和維持をより効果的にするために、平和維持へのすべての貢献者が果たすべきコミットメントを概説しています。焦点となるのは、政治的努力への支援の強化、トレーニング、設備とパフォーマンスを改善するためのより強いコミットメント、およびより強力なパートナーシップです。

・PKOにおけるベルギーとルワンダの役割:
紛争予防、平和維持、平和構築は、ベルギーの外交政策の重要な要素です。 1948年以来、国連が実施した71の平和維持ミッションの多くに繰り返し関与してきたことにより、ベルギーは平和と安全の分野における多国間解決策の長期的なパートナーおよび利害関係者になりました。近年、ベルギーはアフリカ、中東、バルカン諸国のいくつかの平和維持ミッションに貢献しています。

ルワンダは主要な軍隊貢献国の1つであり、UNMISS、UNAMID、MINUJUSTHなどの多くの国連PKOに関与しています。 ルワンダはまた、特に国連の「PKOのための行動」イニシアチブへのコミットメントによって実証されているように、複数の平和イニシアチブをサポートしています。

 

パネル12

・国連安全保障理事会におけるベルギー

多国間主義へのベルギーのコミットメントは、国連安全保障理事会への非恒久的なメンバーとしての参加につながりました。

2019-2020年の任務の一環として、ベルギーは「コンセンサスの促進、平和のための行動」というスローガンを提唱しており、調停者としての伝統的な役割を実用的に高めるよう努めています。その願いは、国際的な平和と安全保障の問題に対する集合的な答えを模索する、建設的で信頼できるオープンなパートナーになることです。

任務中のベルギーのテーマの焦点は、予防、保護、パフォーマンスです。 特に、ベルギーは、評議会によって採択された実際の任務および決議の範囲内でこれらのテーマ別の優先度を実装し、現場のミッションで確実に運用できるようにすることを目指しています。

ジェノサイドの罪

パネル13

・ジェノサイド犯罪とは?
1948年12月9日に採択された「ジェノサイド犯罪の防止と罰に関する国連条約」の第II条によると、ジェノサイド犯罪とは:
国家、民族、人種、または宗教団体を全体的または部分的に破壊することを目的としています。たとえば:
-グループのメンバーを殺すこと
-グループのメンバーに深刻で身体的または精神的な痛みをもたらすこと
-全体的または部分的に、グループの生活条件を物理的に破壊するために計算された危害を故意に加えること
-グループ内での出産を妨げるための措置を課すこと
-グループの子を別のグループに強制的に移動すること

したがって、ジェノサイド犯罪の防止処罰に対する国際社会の注意は、「このような卑劣な惨劇から人類を解放する」ために不可欠です。

ベルギー人犠牲者の追悼

パネル14

ジェノサイドの防止と闘いに関する国連安全保障理事会決議 2150(2014年に全会一致で採択)によると、ルワンダのツチ族に対するジェノサイドは100日で約100万人の命を奪いました。 フツ族とジェノサイドに反対したその他の人たちも、ツチ族に対するジェノサイドの間に殺されました。

ベルギーは22人の犠牲者ーウィリンジイマナ首相(同じく殺害)の保護に責任を持つ10人の平和維持軍と、ベルギー人であることで先に殺害された12人の民間人ーを追悼します。

・ヘイトメディアの役割:
ベルギー人はRPFの共犯者またはハビャリマナ大統領の暗殺の責任者として提示され、特に「ヘイトメディア」のプロパガンダ、特に邪悪な千の丘ラジオ(RTLM)新聞カングラの標的となった国籍の1つでした。

 

パネル15

ツチの根絶とベルギー人、より具体的にはベルギー軍の標的化の準備は、ロメオ・ダレールが国連本部に送った「ジェノサイド・ファックス」で発表されました。1994年1月1日、ツチ族虐殺が始まる3か月前のニューヨーク。 この「ジェノサイド・ファックス」は、ジェノサイド計画について知らされたインテラハムウェ民兵当局者へのインタビューを報告し、ルワンダのツチ族に対するジェノサイドを防止する国際社会の失敗を象徴しています。

「ジェノサイド・ファックス」からの抜粋:

2. 彼は先週土曜日のデモで、儀式とベルギー兵に来る反対派の責任を狙うことを目的としていたと私たちに知らせた。彼らは、RPP BNを挑発して(デモを開始する)デモ参加者を巻き込み、市民戦争を引き起こすことを望んでいました。入国時または議会からの出国時に、代議員は暗殺されました。ベルギー軍は挑発され、ベルギー軍兵士が多数の兵士を強制的に殺害した場合、ルワンダからベルギー軍は撤退することを保証しました。

6.過去のインテラハムウェの主要な目的は、RPFからキガリを保護することでした。 UNAMIR の任務以来、彼はキガリのすべてのツチ族を登録するように命じられていました。 彼はそれがツチ族の根絶のためだと勘付いています。 彼は例として、彼の兵が20分で最大1000人のツチ族を殺すことができたことを挙げました。

 

パネル16

・ベルギーの役割と結果:
1997年4月、ベルギー上院はルワンダのツチ族に対するジェノサイドの調査委員会を開くことを決定しました。

このレポートの結論は、主に集団的責任を強調しています。
「委員会は1994年4月6日以降、ルワンダの役人に加えて、ベルギーの政治および軍事当局、国連、および国際社会全体が、ルワンダの劇的な出来事の特定の側面に対して直接的または間接的に責任があると確信しています。(…)状況、怠慢、稚拙な評価、そして過ちの組み合わせが悲劇につながったのです」

2000年4月7日にキガリで開催された6回目のジェノサイド追悼式典での歴史的な演説で、ヒー・フェルホフスタット(当時の首相)は1994年の大量虐殺におけるベルギーの責任を認めました。

私の国の名のもとに、虐殺の犠牲者に敬意を表します。
そして、私の国、私の人々の名において、私は許しを請います。

 

パネル17 犠牲者22名の名前

ジェノサイド後の司法業務

パネル18

ツチ族に対するジェノサイドの後、紛争中に大幅に弱体化したルワンダ司法は、ジェノサイドの容疑者が完全な裁判を受けることを保証する立場にありませんでした(120,000人以上の容疑者が逮捕されたが、司法は1年に約1,000人を裁く能力しかなかった)。

ベルギーは、国際連合によって設立されたルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)(1994年11月-2015年12月)に貢献しており、タンザニアのアルーシャに本拠を置いています。批判された数字(61人が有罪判決を受けた)に加えて、ICTRはルワンダの平和構築の触媒として真実を追求し、免責と戦う機会を提供しました。

手続きをスピードアップし、国家和解プロセスを実現するために、ルワンダ政府は、伝統的な慣行に基づく共同体の正義のシステムである「ガチャチャ裁判」を実施しました。

1,958,634件の訴訟を処理した後、ガチャチャ裁判は2012年6月18日に正式に閉鎖されました。

 

パネル19

ベルギーは責任を果たすことを決意し、その領土でジェノサイドの犯人を有罪判決しようとする最初の国として先駆的な役割を果たしました。

実際、1994年にルワンダで犯された犯罪のいくつかの刑は、以下を含む国際人道法の重大な違反に対する国内裁判所の強制的管轄権の原則に基づいて、ベルギーの裁判所によって伝えられました。

-「Butare Four」として知られる裁判:アルフォンス・ヒガニロ、ヴィンセント・ンテジマナ、コンソラータ・ムカンガンゴ、ジュリエンヌ・ムカブテラは、1994年4月から7月にかけてブタレ郡での虐殺に関与したとしてベルギー領土で逮捕。 2001年6月8日にブリュッセルで開催され、12年から20年の懲役刑を宣告された。

ベルナール・ントゥヤハガの裁判:ルワンダ国軍の元少佐であるベルナール・ントゥヤハガは、2007年7月5日、ブリュッセルの刑事裁判所から、主にキガリとブタレ郡において、ウィリンジイマナ首相と多くのルワンダ人、10人のベルギー平和維持軍の殺害で20年の刑を宣告されました。 ベルギーの刑務所で20年を過ごした後、2018年12月にルワンダに強制送還。

ジェノサイドの加害者とされる者に対するその他の裁判は、現在も進行中です。

 

パネル20

過去を思い出す-未来を築く

ルワンダに住んでいるすべての人を深く傷つけたツチ族に対するジェノサイドは、20世紀の最悪の人為的な犯罪の一つでした。

それにもかかわらず、ジェノサイド後に生まれて2019年のルワンダ人口の半分以上を占める「新世代」は、国の力と未来を体現しています。

ルワンダの未来を築くのはこの世代の責任です。

さらに、この世代はジェノサイドとその負の印によって異なる方法で影響を受けますが、記憶と和解の観点からも重要な役割を果たします。

そのため、ルワンダ政府は国の若者に大きな期待を抱いており、国家の統一と和解の促進に非常に注力しています。 これらの取り組みは、概して、国際社会によってサポートされています。

現場で感じる重み

この場所を訪問してもっとも痛切に感じたのは、この祈念碑を見たときです。

犠牲になった兵たちの祈念碑

ここのスタッフさんによると、この祈念碑に刻まれた線は兵たちが亡くなった当時の年齢を表しているそうです。

その線は25本から32本。10人とも、30歳であるいまの私と同世代でした。

本来であればこれから人生を謳歌する時間がもっともっとあったはずの彼ら。

ルワンダの人々を守るという任務をまっとうしながら、最期の瞬間にはいったい何を思ったのでしょうか。

もともとツチ族とフツ族(そして少数民族のトゥワ族)の間には、民族としてのはっきりとした区別はなく、社会的な階級のようなものだったと言われています。

しかし、ベルギー植民地時代の1932年にIDカードが導入され、「牛10頭以上もっている者はツチ族、それ以下の者はフツ族」という曖昧な基準で民族が区別されてしまったのです(キガリ虐殺祈念館の記述より)。

それによってツチ族とフツ族の対立が深まり、1994年のジェノサイドが引き起こされてしまいました。

ベルギーの手によって分断された民族。その結果虐殺が起こり、それに巻き込まれて殺害されたベルギーの兵士。

メモリアル敷地内に並んで掲げられたベルギーとルワンダの国旗

なぜこんなにも悲惨なできごとが起きてしまったのか、なぜこうなる前に防ぐことができなかったのか。

さまざまな国や人々の思惑が交差して引き起こされたジェノサイド。

「国家」とはなにか、「民族」とはなにか、「人」とはなにかーー決して巻き戻すことのできない歴史から、私たちはなにを学ぶことができるのでしょうか。

パネルの内容はすべてこの記事に記載しましたが、現地でしか感じられないこともあるはずです。

ルワンダの首都キガリにお越しの際は、ぜひ足を運んでみてください。

Belgium Peacekeepers Memorial 営業時間・アクセス・料金

営業時間

6:00〜19:00

アクセス

ムムジ(中心街)のセレナ・ホテル隣にあります。


料金

入場無料