『文明崩壊』(ジャレド・ダイアモンド著)のルワンダ虐殺に関する箇所を読みました。
一般的に、この大量虐殺の原因は政治家たちにあおられたフツ族対ツチ族の民族対立だとされています。
しかし著者は、それ以外にも様々な要因があると述べており、特に重要だとされているのが土地問題と人口圧力です。
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土地問題と人口圧力
東アフリカの研究家であるフランス人、ジェラール・プルニエの考察が引用されています。
殺戮の決断は、言うまでもなく、政治家が政治的な理由で下したのだ。しかし、それがなぜ、インゴ(家族用の複合住居)に住むごく平凡な農民たちによって、あれほど徹底的に行なわれたのか。少なくともその理由の一部は、あまりに小さい土地に、あまりに多くの人間がいるという逼迫感、そして頭数を減らすことで、生き残った者にはもっと多くが行き渡るという願望にある
人口急増による土地不足と食糧難は想像を絶するものだったとされています。
ルワンダは内陸国であり、農業に大きく依存しているものの、独立後も旧来の農法を続け、現代化や生産性の高い作物の導入、農産物輸出の拡大、家族計画などを実施しませんでした。
その代わりに新たな農地獲得のための森林開拓や、休耕期間の短縮、一箇所の畑で年二、三回の連続収穫を試みることによって、なんとか増え続ける人口を支えていました。
これにより、一人あたりの食糧生産量は増えましたが、人口も増えたために個々人の食糧難は改善されなかったようです。
さらに、これに加えて作用していると考えられるのが下記の要因です。
ルワンダでのツチ族によるフツ族支配の歴史。ツチ族による、ブルンジでのフツ族の大規模な殺戮と、ルワンダでの小規模な殺戮。ツチ族によるルワンダの侵略。ルワンダの経済危機、そして早魃(※)と世界的な要因(特にコーヒーの値下がりと世界銀行の緊縮政策)による事態の悪化。数十万人の自暴自棄になったルワンダの若者が、亡命者として難民キャンプに追いやられ、市民軍による新兵補充の格好の標的となったこと。ルワンダ国内の敵対する政治団体が激しい競争に明け暮れ、権力保持のためなら何をしても不思議はなかったこと。人口圧力は、これらの要因と重なり合って作用したのだ。
※旱魃(かんばつ)?kindle原文では「旱」ではなく「早」の字が使われていました。
単なる民族対立ではなく、様々な要因が絡み合ってこれほどの悲劇に発展してしまったんですね。
こんな悲劇の後になぜ共存出来るのか?
ぼくは現在、青年海外協力隊としてルワンダで活動しています。
我が家の大家さんでもある神父さんと飲んでいる時に、ジェノサイドの話になりました。
彼はジェノサイド以降、人々を救いたいと思って神父になり、このムシャセクターにやってきたそうです。
いまでも毎日朝から晩まで村の人たちのために働きながら「大変だけど、この仕事が出来てハッピーだよ」と言っていますが、来たばかりの時は「本当に酷い状態だった」らしいです。
1994年の大量虐殺から22年が経ち、いまではツチ族もフツ族も関係なくみんなが「ルワンダ人」として同じコミュニティに暮らしています。
ここで暮らし始めてもうすぐ三ヶ月になりますが、そんなことがあったなんて未だに信じられません。
同じエリアで暮らしている人の中には、自分の家族や友人を殺した人がいるかもしれないんです。逆に自分が殺してしまった人の家族が隣に住んでいるかもしれません。
「そんなことがあったのに、なんで一緒に住めるの?」と神父さんに聞いてみました。
多くの人(特に虐殺した側のフツ族)が国外に移住したんだけどねと前置きしつつ、「ぼくはもう充分だと思ってる。もちろん最初は受け入れられなかった人も沢山いたけど、ツチ族もフツ族も充分苦しんだんだ。そして22年かけてゆっくりゆっくり立ち直ってきたんだ」と言っていました。
この22年の間にどんな心境の変化があったのか。なぜいまこんなに穏やかに暮らしていられるのか。
今はまだ理解できませんが、ゆっくりと時間をかけてルワンダ人のことを知っていきたいと思っています。
タケダノリヒロ(@NoReHero)
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